第46回 twitterオフ/若さの可能性/会える鳥居

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最近の話/twitterで知った人と会う(鳥居)/なかまをよぶ/文化的?/うめざわしゅん『パンティストッキングのような空の下』/音楽の話/マイナーだから好きなの?/趣味や嗜好の隠蔽/Aマッソ/若さに戸惑いがち/今まで学んだこととこれからやることのギャップ/可能性/童顔アピール/説明しんどい/自己暗示/酔いやすくなった/口をふさぐ目的/ラジオによる情報格差/会えるネットラジオパーソナリティ鳥居

プロデューサー(起案/web管理):モル
ディレクター(番組構成):鳥居
サウンドディレクター(音源編集/ジングル):ワニ

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編集後記: いいタイトルを思いつけませんでした!(15分くらい真剣に考えて”ネッ鳥居”しか思いつかなかったので考えるのをやめた)

さて、インターネットは人々の繋がりを断ち切ったのか?というと、そうでもない気がします。しかし、より繋がりを強めたのか?というと、これはもっと違う気がします。もとより、人が持てるつながりには限度というものがあるのではないでしょうか?僕がそう考えるのは、人が持つリソースが限られていると実感させられることが多いからです。頭は1つ、手足は2つずつ、自由な時間は24時間のうち数時間だけ。同じ場所で同じ行動をする時間も、行動できる範囲も限られるのは当然です。自分がコピーロボットかなんかで2体に増やせたらあんなこともできるのになあって思ったことはないでしょうか?そういう物理的なリソース制限に加えて、さらに個人の性格なんかも反映されると思ってます(特に僕は一人でいることが好きなので人に会ったりするのに割けるリソースが少ないのです。一方でたくさんの人に会う人はそういう性分なんだと思っています。個人的には努力したからどうとかではないと思ってます。僕は一人でいるのがしんどいという人の気持ちがわからないですし、逆も然りでしょう)そういう限られたリソースのうち、不必要に感じていたつながりを切り離すことで確保できたリソースを、より好ましいと思われる繋がりに当てた、つまりは再配分であるとは考えられないでしょうか。まあその関係性の良し悪しは別の話なのでことさらネットを持ち上げようとも考えませんけど。しかしソーシャルだなんだいいつつも、結局会うとなると住んでいる地域に縛られてしまうのは歯がゆいところです(モル)

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